人生で1つだけ胸を張れる事。
私は昔から、広く浅く、そこそこなんでも、入り口位までは器用にできてしまうタイプではあったけれど、そこを突き詰めて入り口に入ったとたん、全く出来ない人で。
なんていうか。
普通の人が10で出来る事が10000位やってやっと追いつくタイプ。ぶっ倒れる位努力しないと出来ない駄目な人。
そんな私が。不器用で鈍くさい私が。たった1つだけ続けてきたこと、それは現在のプロレスを含む格闘技。
こんな不器用な私が、30歳過ぎ位?で、CAPOEIRAを始め、34歳で総合格闘技を始め、36歳でプロになり。38歳でキックボクシングの試合もさせていただき、40歳で引退してからも尚、プロレスという新しいステージで闘わせていただいている。
↓33歳前後?CAPOEIRAヘジョナウのブラジル本部にて。
↓CAPOEIRAで最初の黄緑帯から、綠帯になった頃。当時はこんなに細かった。細すぎて後藤先生にその後、最初会った時、こんな細くてこの子出来るのかな?と不安になった、と言われた想い出が。覚えてますかー。先生。笑
↓黄帯になった頃。メストレバンバが来日した時。この頃は私、少し体が厚くなってきましたねー。
↓2008年11月8日総合格闘技デビュー戦。VALKYRIE旗揚げ興行ディファ有明にて。試合前。
↓VALKYRIE/2010年2月11日ディファ有明。この鼻血出してボコボコにされてる写真がゴング格闘技に、しかもカラーで対戦相手の特集で使われてヘコんだ想い出が。笑
↓2011年5月15日J-GIRLS新宿FACE。大島椿さんとの刺激的な出会いの1戦。笑
↓ちなみにこのコスチュームは知る人ぞ知る、たまちゃん制作です。
↓始めて金網以外、リングでやった試合で、PANCRASE/2011年7月23日。新宿FACEにて、関さんと。ちなみに当時のPANCRASEのストロー級で、たしか47.5kg位で、減量で私ペラペラ&この身長差。計量時。汗
↓私の中で負けたけどベストバウトな試合。ちなみに双方のコスチュームを同じたまちゃんが制作しております。笑
↓事実上の引退試合となった、PANCRASE/2012年3月11日の前の、事実上最後の練習(計量日前だったような)ハンセン元気かな。お世話になったAACCにて練習後。
なんていうか、根性だけはあった。でも、結果がついてこなかった。先輩にもいじめられるタイプだし、努力しても努力してないようにノホホンとして見えるタイプで、しかも努力してるとみられるのが自分自身でイヤだから、陰でコソコソ練習するタイプ。笑
走るのもキライだし、そもそも運動キライだった、はず。
それが、気がつけば動いてないと死んじゃう!とか思ったり、毎日毎日ゲロはきそうになりながら走り続けてる。誰に認めてもらえなくても関係無くて、なにが良くて毎日苦しい事してるかよくわかんないけど、それもこれもまだまだプロレスラーでいたいから。
マゾだなぁと思うよ。自分で。最近、そんな自分を諦めて、そんな自分を応援してる。笑
多分マゾな自分に気づいた?きっかけは。40歳で引退を悩んだときに、当時の自宅(池袋/椎名町)から毎日、中野坂上まで山手通りをロードワークしてたんだけど、この先ずっといけば江ノ島にいくなーと思って、本当に江ノ島まで走って、江ノ島の海に飛び込んだ。67km位だったかな?腰にiPhoneつけて映像配信しながら走ったよ。
↓2011年9月11日。走って江ノ島着。顔がやばすぎて隠してる。笑
↓その後、走ったその足で新木場1stリングでジュエルスの試合があり。AACC勢を応援するのに、この紙を持って海に飛び込みました。そして実際現地に応援に行きました。サンダルはいて座席を上り下りする私に63が、あなた足大丈夫なの!?とドン引きしてました。笑
で、結論として年齢的にも肉体的にも激しい減量のある競技はもう不可能という判断で引退したけれど、あの時があったから、きっと私も諦めなければもっと頑張れるって今の私の中心を作ってるのかな。
どんなにボコボコに負けてもまた練習してた。練習しないから負けるって悪口いわれても黙々と当時の先生や63と一緒に皆が来る前の道場で毎日毎日練習してた日々。
あの日々は私の遅い青春。そして今もまだまだ青春真っ盛り。
進んできた道、やってきた事はこの先の私の人生を裏切らない。
これだけは胸を張って言えるよ。
だから45歳。まだまだ頑張る。
最近のコメント