学ばざる者言うべからず。

学ばざる者言うべからず。

偉そうなタイトルですが。まさにそう思うのです。

なんだか最近、表現の自由とか意見の自由とか、素晴らしい事なんだけど、全の「大切な軸」がズレてきている気がする昭和の人間です。

たとえばね。わかりやすくたとえ出すとね。私が先日講習を受けた救命技能認定証もね。

「AEDは勝手に誘導してくれるし、金出せばとれんだからさ、わはははは~」

みたいに言う人ね。その通りなんだから、あなた人に言う前に自分でやりなさいよ。「金だして講習すればもらえるんだから」。やりもしないのに、あーだこーだ理屈並べ批判するのってどうなの?俺だって出来る的にいうならやってから言え。

そもそももし自分が倒れたとして。そういう人にAED使われるのと、講習受けている人に使われるのでは、もし死んだとしても、講習受けてる人にやってもらって死んだ方が諦めつくと思うし。お前のようなヤツに救命処置されるくらいなら、放置してくれ。無駄に死にたくない。と思います。ごめんなさい。でもそう思うもん。

そして、「そんなのさ、もし死んだらどう責任とるの?ばかじゃね?」とか言う人。

そう。講習うけたり勉強していないからこういう事言うの。緊急事態で人の命を助けようとする行為で万が一があったとしても責任には問われません。

学べよ、まず。

で、なぜこのような例を出したかというとね。

今週きらプロイベントがあります。なぜ恒例の長野に行かなかったか、試合をしないか。全てに理由があります。悲しい理由です。

乳児院の子供達にプロレスという方法を通して寄付をし、元気づける活動。私は私の想いがあって賛同しています。

でも、それを偽善だ、利用してるだ、なんていうか普通じゃ考えられない方法で阻止というか邪魔というか、なんていうか、色々ありました。確かに世の中には現実として、そういう人もいます。

なんていうか。愛が足りない、愛に飢えている人だと思います。かわいそうです。そういう方法でしか自分の存在を示せない。

きっと寄付どころか、昨今の自然災害やテロに対しても、そういう目線でしか見れないんだと思う。逆に、その人を救える方法があるなら出来る事があるなら助けられるなら、何かしてあげたいと思う本当に。嫌みじゃなくて本気で。

1人の力では誰も救えません。本当に。だけどね。

その想いをつなぐ事でものすごい力になって、世界を動かす事もできるの。それが1人1人の「想い」。

マララさんがね。「本とペンを持って闘いましょう。」と。素晴らしい言葉。この意味を皆さんはそれぞれどう解釈しますか?私はこう解釈します。

「彼女は本とペン、という表現でしたが。暴力と武器で闘う事はある意味限界がある。そして無意味。何も残らない、残せない。残るのは悲しみだけお互いに。でも、想いと想い、それぞれの信念を武器に闘う。その力はこの地球上最強最大の兵器になると思う。」

そう皆が信じれば、それに対して意義を唱える人がいても唱える場所がなくなってくの。

確かに私達はプロレスという「闘う」表現を使っているけれど。これはその闘うではないの。わかってほしいな。

そして、たとえばね。私が雫さんの事大嫌いだとしましょう。でも、この活動には賛同する自分がいる。だからやる。もし私が雫さんの事が大好きでも彼女がやっている事に賛同できなかったら賛同しない。

何て言えば良いか解らないんだけど、それを引っ張っている人の好き嫌いで世の中の大切な事を判断するのは駄目だと思うの。

そして。

私はこう思うのね。自分で知り、学び、体験し。その上でいらないものは削除すればいいし、必要ならもっと学べば良い。失敗しても必ず大切な物が残るの。まずは目を開いて見て。感じて。心で触ってください、それに。

まずは動く。学ぶ。失敗する。成功する。そしてなにかを見つける。

プロレスもそうよ。出来なくても出来ても関係無い。まずは練習する。学ぶ。それで出来なくても悔しくても何をすればいいか見えて結果前に進めるし、なにもしないで蘊蓄たれてる人は何も出来ずにそこから消えていく。どんなに成長しても学ぶ事をやめたら人間は終了だと思う。私は。

そう、思うんだもの。

だから、今の私は。そう生きる。

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